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10月21日 ボスニア・ヘルツェゴビナ Mostar / Hotel Mostar(72DM)

モスタルは四方山に囲まれた盆地
今日朝チェックアウトする時、ホテルの女は言った。
「宿が100、昨日の夕食と電話代がいくらいくら、全部で210ドイツマルクです」
なぬ?ドイツマルクだと!?俺はてっきり料金はクーナだと思っていたのだが、実はそうではなかった。210マルクというと、日本円で10000円ではないか!
昨日あなたは宿代は100だけとしか言わなかったではないか、ドイツマルクならそうとはっきり前に言うべきではないか、と反論したが聞き入れられるはずもなく、クレジットカードも受付けなかったので、俺は町のATMまで走る破目になってしまった。
 それにしても昨日チェックインする時、宿代100と聞いて、えらく安いなと思ったところで疑うべきであった。ガイドブックには、クロアチアでのホテル料金表示はドイツマルクが一般的と書いてあったのを読んでいたにもかかわらず、100と聞いて100クーナと早とちりしてしまった。さらに、宿泊代がそんなに安いなら、レストランもたいしたことないだろうと思って、昨日の夜はメニューも見ずにビーフステーキを注文し、ビールも二本飲んでしまったのだ。俺はばかだ。
 現金を引き出しに町に出たところ、プライベートルーム(部屋の間借り)の客引きが寄ってきたので、値段を聞いたら80〜100クーナだという。三ツ星ホテルが間借りと同じ料金レベルな訳はないから、これはやはり俺のミスだろう。それにしても宿の女もちゃんと「100マルクです」と言ってくれれば良いではないか。なかば意図的にそうされたのかもしれないな。
しかしなんで国境を接しているわけでもないドイツマルクなのか?

破壊された橋は再建工事が進められている
気を取り直してさらに南へ走る。
しばらく走って海岸道路に別れを告げ、ディラナ山脈の中に切り込んでゆく。
これからボスニア・ヘルツェゴビナへ行こうとしている。
国境は海からそれほど離れていない、クロアチア側のImotskiとボスニア・ヘルツェゴビナ側のPosusjeという町の間にある。イミグレーションと言っても道路脇にプレハブを建てたような簡単なもので、クロアチア、ボスニア側とも意外に簡単に通してくれた。
 そしてさらに山道を走る。この国も土地は痩せている。土壌は石灰質で、ところどころ道脇が大きく掘り返されている。インフラ整備か、それとも地雷の撤去作業なのか?地雷ならMINEとかなんとか書いてあるはずだから多分前者だろう。
 ごたごたで出発が遅くなってしまったので、当初の目的地、サラエボまで走ろうと思えば夜になってしまう。この国を夜走るのはまだ危険が大きいと思ったので、途中のモスタルという、クロアチアとの国境からは50キロほど、サラエボまでは150キロほどの町で、早めに切り上げることにした。

このモスタルと言う町は、ネレトバ川を挟んで東側がムスリム人、西側がクロアチア人と、住み分けがなされている。ただ西側にもモスクがあることで、紛争以前は混住していたことがわかる。そして以前はセルビア人も住んでいたが、紛争で追い出されたらしい。その後ムスリム人とクロアチア人の対立が起こり、町のかなりの部分が破壊された。歩いていても廃墟になった建物が多く見られる。そして一定間隔で立っている警察官や平和維持部隊(国連?NATO?)らしき人間の多いこと。俺のホテルはクロアチア支配地域側だが、夕方橋を渡ってムスリム側まで歩いてみた。歩いていてもなんとなく気が張ってくる空気があったね。6時になったらムスリム側のモスクからコーランが流れたよ。




10月22日 ボスニア・ヘルツェゴビナ Sarajevo / Pansion (40マルッカ=40DM)

旧共和国議会ビル→拡大
 サラエボまで来た。
モスタルからネレトバ川沿いに北上、ヤブラニカという町から今度は東へ。途中、山道は900mまで登り、走っていて寒くなってきた。ジャケットなしというのはさすがにこたえるね。寒さに耐えながら走っていると道は徐々に下りはじめ、サラエボに着いた頃には高度は500mそこそこになっていた。
 市内に入ってメイン通りを走っていくと、砲撃で廃墟になった高層ビルやタワーが立ち並んでいる。さらにもう少し走ると、アパートとか商店などの背の低い建物までぼろぼろになっている。話には聞いていたが、実際すさまじい破壊の光景だ。
 バイクを道脇に止めてガイドブックを見ると、この通りは最も戦闘の激しかった地域の一つということになっている。別名「スナイパー通り」と呼ばれ、廃墟となった高層ビルからセルビア兵のスナイパーが無差別に狙撃したという。そういえばそういうニュースをテレビで見たのを覚えている。そこで生活している人々はこの道路を通らないわけにはいかず、命がけで道路を横断している、といった解説だったと記憶している。
 地図で確認すると、ぼこぼこになっている建物のうち、ホリデイインの隣にあるのがツインタワー、通りをはさんで斜め向かいにあるのが旧共和国議会ビルだった。ツインタワーの方は少しずつ修復されつつあるが、議会ビルは放置されたまま。
 ビルに近づいてみると、壁面にぼっこりと、砲撃による穴が開いているのが確認できる。さらによく見ようと近づくと、風が吹いて割れたガラスが下に落ちてきた。あんまり近づき過ぎると危ないぞ。

スナイパー通りの廃墟→裏手のアパート群
宿泊案内所で安宿を紹介してもらいチェックインしたあと、旧市街を歩いてみる。ここはスナイパー通りほどすさまじくはないものの、それでもところどころ壊れた家屋、歩道に開いた穴などがあり、この人口密集地にも砲弾が飛び交っていたのがわかる。今はかなり修復されているのだろうが、当時はスナイパー通りと同じくぼろぼろになっていたのだろう。
 旧市街のバシチャルシャ地区はそれでもかなりの活気。土産物屋が建ち並び、意外なほど多くのの観光客が散歩したりカフェでくつろいでいる。特に土産物屋が集中している地域は、石畳に木造の平屋建てが軒を連ね、日本の高山や妻籠に少し似た、雰囲気のあるエリアだと思う。

ここには昨日のモスタルよりさらに多くの平和維持部隊が町を監視している。腕章を見ると、フランス、トルコ、ベルギーなどからの兵士だ。繁華街には数十メートルおきに立っており、また非番らしい兵士も、軍服を着たまま連れもってバーでビールを飲んだり観光したりしている。このサラエボに、いったい何人の兵士が駐屯しているのか?これほどの大部隊を送り込まなければ平和は維持できないのか?サラエボの物価がやたらと高いのも、このすごい数の多国籍平和維持部隊による「兵隊さん景気」になっているんじゃないかと勘ぐってしまうね。





10月23日 クロアチア Dubrovnik / Private Room (120クーナ)

少し早めにおきて、サラエボ郊外をバイクで走ってみた。
1984年、冬季オリンピックのメイン会場となったスタジアム、スナイパー通りの裏手にあたり、被害の激しかったグルバビッツァ地区という住宅密集地にも足を運んだ。
スタジアム内が内戦の際の犠牲者の墓地になっていると思っていたのだが、メインスタジアムではなく、サブグラウンドの方だった。おびただしい数の墓石と十字架。そして墓碑に刻み込まれている数字のほとんどが1992、93、94、95のどれかで終わっている。一方、生まれた年は当たり前だがさまざま。そして宗教も・・・キリスト教式、イスラム教式、キリル文字、アラビア文字・・・100万都市が無差別に砲火にさらされた結果を(もちろんその一部ではあろうが)、あまりにも簡潔に、定量的に認識されられる場所・・・
 昨日市内中心部を歩いた時は、内戦の傷跡をあちこちで見はしたものの、それとは全く関わりのないような賑やかな人ごみに揉まれ、これが本当に数年前に激戦地だった場所だったとは感覚的に認識しづらい面もあったが、この墓地は違う。霜が降りている芝生の上を歩きながら、この事件はまだ「歴史」になっていないと思った。これはまだ「今」の一部で、だから軽々しく歩いたり写真をとったりする場所ではないような気がした(が、やってしまったが)。
 同じような感想を、土産物屋に置いてある絵葉書を見た時も思った。絵葉書は、サラエボのきれいな場所や昔の風景だけで、戦争の惨禍を伝えるような写真は一枚も見つける事ができなかった。これを確認した時、まだ紛争は終わっていないんだと感じた、そしてこの先も、今の平穏な状態が続かどうか、非常に怪しいもんだとも思った。

その後クロアチアへ戻るべく出発。
昨日泊まったモスタルまで戻り、そこからはほぼ南に進路を取る。南下するにつれ高度も下がり、どんどん暖かくなるのがはっきりとわかる。Met-Kovicという村で国境となり、パスポートを見せて難なく通過。ボスニア・ヘルツェゴビナの南西部はクロアチア人支配地域(ボスニア連邦)なので、国境を越える時も和やか。ほとんど国内感覚で移動できる。
 その後さらに南下して再びアドリア海へ出、今度は南西へ。海岸沿いにしばらく走ったら、なぜかまたボスニア領へ突入した。おれはそれまで知らなかったのだが、ボスニア・ヘルツェゴビナは完全な内陸国ではなく、クロアチアの長い海岸線の南の端のほんの一部(15キロ程度か)をちょん切る形で、わずかながら海を持っている。紛争当時は、この砂時計の口のような海岸を封鎖され、国の経済と人々の生活が大きな痛手をこうむったという。
 そんなボスニアにとっては大変重要な海岸を数分で走り抜け、再びクロアチア領へ、そして見えてきたのがクロアチアきっての、というか中部ヨーロッパでも屈指のリゾート地、ドゥブロニクである。

ちょうど夕日が美しい時間帯だったので、写真を撮ったり、次の訪問地イタリアへ渡るフェリーの切符を買ったりしてるうちに暗くなり、宿探しが困難な状況になってきた。この前のスプリットでのクーナ・マルク騒動でクロアチアのホテルが高いのは知ってるし、それにここはさらに名高い観光地だから、容赦ない値段を吹っかけてくるのは目に見えている。だから自力でプライベートルームを捜す事にしたのだが、ここドゥブロニクは長崎も顔負けの急坂の町で、荷物満載での宿さがしはかなり神経を使う。なかなかSOBE(クロアチア語で「部屋」の意)と書いた看板を見つけられないし、小便をしたい事もあって、神経も相当イライラしてきた。そろそろ諦めて、郊外の道脇にでもテントを張るかなどと考えてながら流していたら、運良く一つのSOBE看板を見つけた。
 玄関先で「ハロー!」と大声で叫ぶと、中から歳とったおばあさんが出てきて、俺が何も言わないうちから、「ジャパニーズ?ジャパニーズOK、ジャパニーズ友達」とかいいながら、すぐに中に引っ込みまたすぐ出てきて、日本人の客と撮った何枚かの写真、そして手紙や地球の歩き方の切り抜きを見せてくれた。
 全くの偶然だが、おれは日本人旅行者ご用達の民宿を訪ねたらしい。

かなり小便もしたかったので、値段に関わらずここにしようと決めていたのだが、一応聞くと120クーナだという。なかなかリーズナブルだ。駐車場もあるし、さっそく荷物を運び込んで小便をして一息ついた。
 部屋も広くきれいで、まんなかに特大ダブルベッドが置いてある。壁にかかっている価格表をみると80クーナと書いてあったが、二人用の部屋に泊まっているんだからここは良しとしなければ。
 着替えたあと、飯を食いに行こうと思い、おばあさんにレストランはどこかと聞くと、おばあさんはなんと俺をレストランまで連れて行ってくれた。それも家のすぐ前とかそんなんと違って、急な階段を下りて10分以上も歩いた所まで一緒について来てくれたのだ。
 おばあさんは見かけはかなりよぼよぼで、口なんかも年寄り特有の「いつももぐもぐ状態」なんだが、足腰はびっくりするほど強靭だ。暗い夜道の階段をすたすたと降りて行き、目指すレストランにはいって「あたしの客の日本人になにか美味しいものを作ってやって」と店員に言った(たぶん)。
 おばあさんは俺が飯を食うあいだ外で待ってると言ったのだが、いくらなんでも年寄りにそこまでさせられないし(年寄りじゃなくてもされられないな)、「帰り道は覚えているから、先に帰っててくれ」と言っておばあさんを送り出し、そしてメニューを検討しはじめた。

しかしだ、おばあさんはいたのだ。
俺がキノコのクリームスープとポークステーキ南クロアチア風と炒めご飯とビール二本とパンとコーヒーを平らげて外にでると、おばあさんはレストランの隣のバス停で俺を待っていた。おばあさんの異常な親切ぶりに、ありがたさを通りこして不気味なものを感じたね、実際。
 部屋に帰って、バルコニーに出てドゥブロニクの夜景を見ながら、なぜか置いてあったトーマス・マン「魔の山」の日本語版を読みながら、いろんなことのあった一日を振り返った。それにしても今日はたくさん書いたぞ。




10月24日 クロアチア⇒イタリア Bari行きフェリーで一泊

城壁から街並みを眺める
 ドゥブロヴニクを歩く。
この町はクロアチアのほぼ南端に位置し、「アドリア海の宝石」と賞賛される美しい観光都市である。
チェコやハンガリーに滞在中、南から上がってきた旅人は一様にこの町を絶賛していたので、ここは外せなかった訳である。
 町の起源はなんとキリストが生まれた頃らしいが、歴史に登場してくるのは7世紀以後のこと。ローマ、ビザンティン帝国、ハンガリー、オスマン=トルコ、オーストリア等々、所属する国家こそ入れ替わり立ち替わりしたが、南スラブの海の玄関口として、一貫して重要な貿易港であったと想像できる。
 ハイライトは、周囲約二キロの城壁に囲まれた旧市街。まず東のピレ門から城内に入り、メインストリートのプラツァ通りを歩く。左右を見ると、両手を伸ばせば届きそうな幅の(と言えばちょっと大げさ過ぎるが)路地がくまなく走っている。その狭い路地のあちこちにテーブルが出てオープンカフェやレストランになっているから、一層せせこましい。
 プラツァ通りは400mほどで、その先は海。今日は雲ひとつない晴天で、気温もかなり高い。日差しが強いので、体感温度的には30度近くありそうだ。海岸に面した宿や岸壁では、多くの人が裸になって日光浴をしている。

城内の路地をうろうろ歩いたり飯を食った後、城壁の上を歩いて見ようと思い、登り口をさがした。全長2キロの城壁は、上を歩けるようになっているのである。たまたま南側のイグナチオ修道院脇の民家が例の内戦で破壊されてて、そこから城壁のフェンスが見えたのでひょいと跨いで中の通路に入った
(降りる時に気が付いたんだが、この城壁は実は有料で入り口が3箇所ほどある(15クーナ)。俺が侵入したポイントは、
スキあり!
本来家が建っているべき場所で、当然入り口ではなかった。こういうのが日本人宿の「情報ノート」のいいネタになるのだろう)。
 城壁からの眺めはさらに素晴らしく、南は真っ青なアドリア海、北は乾燥した岩山の間に、赤茶で統一された屋根と白い壁の旧市街が一望できる。この美しさをうまく伝えられる表現力を持たないのがもどかしいが、「アドリア海の宝石」という称号にふさわしい町なのは間違いない。

 実はこの町も、クロアチア独立の際、ユーゴ連合軍から激しい攻撃を受け、町の2/3が損壊したという。
確かによく見ると、いやよく見なくても破壊されて瓦礫になっている家がまだいくつかあるのがわかる。城壁をはじめとする歴史的な建造物にしても、あちこちに補修の跡が見える。それでも古い石を使ったりして、出来るだけ昔の通りに戻そうとする努力が垣間見られる。町をあげての修繕活動は現在進行形で、あちこちで大工さんが足場を組んでトンカチトンカチやっているよ。
 砲撃の後、ユネスコの世界文化遺産に指定されたので、補修費もけっこう出るし、数年後にはほぼ復活するんじゃないかな、もちろん今でも十分素晴らしい町であることは間違いないよ。





10月25日 イタリア Napoli / Ostello Mergellina Napoli  (2500リラ)

昨日のおまけ。城壁にて
昨日のフェリーはほとんど寝られなかった。
ドゥブロヴニクを夜11時に出発して、アドリア海をはさんだ対岸、イタリアのバリに着いたのは朝8時。揺れはほとんどなかったんだけど、俺の席は普通の椅子席(Deck)だったから体を伸ばして寝れない。それでも普段ならいくらかは眠れるはずなんだが、昨日はまったく目が冴えていた。
 実は数日前のブダペストで日本人大学生の二人組と同宿し、彼らがポーランドでの夜行列車の中で睡眠薬強盗の被害にあったという話をしてくれたのを思い出して、どうも気になってしまったのだよ。

 彼らは二人とも「同時に」被害にあった。朝起きたら、隣同士の寝台に寝ていた二人は、どちらともズボンのポケットを刃物で切られ、中の財布を抜き取られていたという。その間、二人とも全く気づかなかった。夜中の列車でズボンを裂かれるほどの激しいことをやられたら普通気がつくだろう。しかしどちらとも気づかなかったのは、おそらく二人同時に睡眠ガスかなんかをかがされ、意識を失っているうちに犯行に及んだものだろう。二人のズボンを見せてもらったが、ポケットのところが見事に切られていた。
 彼らが言うには、列車が出発してから、警官らしき人物が一駅ごとにしつこいぐらいに検札やパスポートチェックに回ってきたらしい。これがおそらくグルで、二人が寝込むのを確認していたんじゃないかという事。これが本当の警官かどうかも疑わしいし、もっと悪いことだが本当の警官がグルだった、というのだってありえる話だ。
 そんな事を思い出したから、目が冴えてしまってどうしようもない。考えたら、列車と違って揉め事を起こしたら逃げられないし、確率的にはフェリーの方がずっと低いとは思うんだが、一度寝るタイミングを逸したら、朝方まで瞼が重くならなかった。

 だから寝ぼけて、という訳ではないが、フェリーからバイクを降ろして港内で今日のルートを検討し、さあ出発という時に、キーとマップケースがなくなっていることに気づいた。キーはバイクのキーではなくて、バッグのファスナーなどに掛ける南京錠のキー二本で、運悪く(というより、フェリーの中でバイクと一緒に荷物も置きっぱなしになるので防犯上必要だったから)全部のバッグに錠をかけていた。スペアキーはあるのだが、まるで冗談のような話で、それが錠をかけたバッグの中に入っている。
 最初は睡眠薬強盗みたく刃物でバッグを切る他ないかとも思ったが、考えればいろいろアイデアは出てくるもので、南京錠がかかっているファスナーとファスナーの間のわずかな隙間から指を突っ込んで、スペアキーが入っているケースを手繰り寄せ、そのケースのファスナーもなんとか開けて中からスペアキーを引っ張り出すこと成功。一件落着となった。
 マップケースの方は正に神隠しにあったとしか言い様がない。ほんの数分前にケースから地図を取り出し、その場でルート検討してさあ走ろうという時になくなっていたのだから・・・風でどこかに飛んでいったのかも?しかしそんな強い風は吹いてなかったしなあ・・・ただこれもスペアを持ってたので良かったけど。

何か割り切れない、もやもやした気持ちで西の方向へ走り、今日の目的地ナポリに向かう。しばらく海岸沿いに、後はイタリア半島を斜めに横切る形で山中に入っていく。山の斜面を利用した耕作地には褐色の土壌が顕わになり、同じアドリア海に面する国でも、クロアチアとは違い土地がずいぶん肥えていると感じた。
 ぽかぽかと天気もよく、いざ走りだしてから眠たくなってきたのだが、ナポリに近づくにつれ、もやもやもしてられない状況になってきた事に気づく。それは交通事情だ。
あまりにも運転マナーがひどい。ポーランドもかなりひどいとは思ったがイタリアの比ではないだろう。どれだけひどいかはまた今度書くとして、今日はなんとか無傷でユースまでたどりついたという事だけ報告しておこう。




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