→ 2000年9月1〜5日へもどる

9月6日 フィンランド  Helsinki / Stadio YHA(65FIM)

 リアタイヤの交換。900マルッカとえらく高くついてしまった。こりゃほとんど定価じゃないか。まあ店がハーレーダビットソンショップだったから仕方ないか・・・チェーンオイルもくれたし。
 そんなことよりも一大事が発覚。支払いをシティバンクが発行しているVISAカードでしようと思ったら、これは使えないとの事。出発以後、これまでも高額の買い物の時はたびたび使えない事があったので、もしやと思い店の人に電話を借りてカード裏面にある番号に電話してみる。
例のイラつかせる音声ガイドの指示をたどりたどり、オペレータと直接話した。

そして認証をストップされていることが発覚。
オペレータが言うには、俺が会社を辞めた後住所変更をしておらず、郵便物がカード会社に戻ってきており、その後の消息の確認が取れなかったのが理由ということ。
そしてさらにたたみかけるように、「飯田様は現在ご旅行中か何か?そうですかそんなに長く・・・・現在お仕事は?そうですか現在定職についていらっしゃらない・・・」
そして後はいかにもオペレータらしく、「申し訳ございませんが、私どものカードは現在日本国内にお住まいの方で、定期的な収入のある方を対象に発行しておりますので、以後カードはご使用にならないようにお願いいたします」と言い放ちやがった。
 
シネマ・ビルの二階でやってた
「旧ソ連の写真展」
俺も簡単には引き下がれない。これは単に旅行で別に住所不定ということではない、次の仕事も目処はついている(うそ)、十分な額の預金をあんたのとこの銀行に置いているはずだ、などなど。
 しかしいづれにしてもカードを持つにはフローが不可欠で、ストックだけではダメらしい。粘りに粘って審査にかけるとこまではいったが、まず復活はムリだろう。
 それにしても、いくつもの国を渡り歩いて、こういう時にこそ切実に必要とされるクレジットカードを、こうも杓子定規に止められて頭に血が上ったぜ。 と同時に、今の俺が社会的に全く信用されない立場に居ることを改めて思い知らされ、しばし呆然となった
 もう一枚JCBを持ってきているが、これは東南アジアではともかく、ヨーロッパではほとんど威力を発揮しない。また家にセゾンカード(VISA)を置いてて、とりあえずこれを送ってもらうしかないが、これも同じ理由で使えなくなっているかもしれないし、さてこの先どうするべか?


 腹がたって観光する気にもなれなかったので、映画館に行ってメルギブソンの「パトリオット」を見ることにした(45FIM)。アメリカ独立戦争を描いた、これでもかというアメリカ映画だが、むしゃくしゃした気分の時は、こういう単純明快なのがいい。
 スクリーンいっぱいに展開される豪快な戦闘シーン、感情がジェットコースターのように起伏するストーリー、そしてバシッと割り切れるエンディングで、映画館を出た時には気分もすっきりしていたね。それにしても、アメリカ人って、イングランドを憎たらしく描くのがどうしてこうも得意なのかねえ(カンシンカンシン)。
 夕食は、Ouluのホテルオーナーがくれた「ただメシ1回」と彼のサインを添えたパンフレットを持って、彼のレストランへ行って思いっきり食った。ヘルシンキ産のシーフード料理と野菜スープ、ビール2杯で、完全に機嫌は直ったね。




9月7日 エストニア  Tallinn / ユリカの家B&B (260EEK)

ヘルシンキ港にて
 ヘルシンキ港からフェリー(バイク込みで210FIM)で二時間弱(約80キロ)、エストニア共和国の首都タリンは思いのほか近くにあった。
 入国審査は少し時間がかかった。パスポートチェックと平行して、係官が登録証記載の車体番号がバイクにちゃんと刻印されているかどうかを調べられた。俺もこれは何処に刻印されているか忘れてしまったので、二人でしゃがみこんで10分ほど捜すが結局見つからず、係官は首尾よく諦めてくれた。一緒に探したのが良かったんだろうな、それからは彼も急ににこやかになって俺の旅の話を面白そうに聞いていたよ。

タリン港から市内中心部へ入る。スペインやフランスの田舎以後、あんまり見てなかったような古い石畳と建物の調和が美しい町である。人口40万の首都にしてはやたら静かだなと思っていたら、中心部の多くの地域では交通規制がひかれてて、許可車以外は立ち入り出来ないようになっているのだ。だから歩行者にとってはすこぶる快適だし、観光するのにも歩いて十分回れるほどのサイズである。
 ここしばらくできてないネット接続を最優先に考えて、民宿紹介所へ行って電話回線が使えるB&Bを紹介してもらう。
 北欧と違って、荷物を乗せたバイクを路上に置き去りにするのはかなり神経を使う。紹介所は3階にあったのだが、係のおばさんと話しながらも、断って数分おきに窓から階下のバイクをチェックした。たまたま別の日本人旅行者がいて、ちょっとの間見てて頂戴と頼んだのだが、すごく迷惑そうな表情をして、挙句の果てには数分後にどっかに行っちまいやがった。同胞意識のないやつめ、おまえなんかぼったくりバーで睡眠薬飲まされて身包みはがされちまえ凸(`_´#)

巨大パプリカの肉詰めエストニア風ソースかけ、
蒸しポテト、パン二種
カレイのから揚げ、
トマトとネギのフレッシュサラダ、
煮込みプラムのデザート、
宿は中心部ら10数キロはなれた郊外の一軒家。俺の部屋はまたしても離れの独立家屋。最近俺の泊まるB&Bは良くヒットする。平屋だが大きなベッドルーム兼居間、キッチン&ダイニングルーム、そしてうれしいサウナ付きだ。
 宿のおじいさんに伺うと、去年新築して、今年はもうそろそろ閉めようかと思ってたところだったらしい。なんでも俺が今夏4組目の客らしい。もちろん初ジャパニーズだろう。
 広大な庭には、リンゴ、プラム、葡萄などの樹木に実が実りまくってて食い放題。プラムは赤いのと黄色いのがあるんだが、黄色い方が最高に旨い。チェックインしてすぐ、うまいうまいといって20個ほど平らげたら、おじいさんは面白がってさらに山のように皿に盛って持ってきてくれた。

この部屋は260クローネなんだが、レートはいったい幾らぐらいなんだ?町で確認したら1ドルで20クローネ弱だったから、そこから推測すると1クローネ6円くらい?そうすると1500円程度でこの豪勢な別荘に泊まれるのか。なんとも嬉しい事ではないか。
 この値段には朝食も含まれてるんだが、おじいさんとおばあさんは俺を気に入ってくれたのか、晩飯まで作って持ってきてくれた。これがまた「最高ですか〜」と福永法源に聞かれたら「サイコーでええす」と大声で答えてしまいそうな味と盛り付けで、なんとも言えない幸福の華に包まれる。
 メシの後はサウナでゆっくり旅の垢を落とし(といっても今日は殆ど走ってないんだが)、暮れ行くタリンの空を眺めながら、この国の人々がここ10数年くぐり抜けてきた激動の時に思いを巡らした。




9月8日 エストニア  Tallinn / ユリカの家B&B (260EEK)

タリン一日観光。
宿からバスの5番に乗って30分ほどで中心部へ。宿の住所や電話番号などを忘れて来たがちゃんと戻れるかな?
出発以来持ち歩いていた「地球の歩き方・バルト3国編」がやっと役立つ時が来た。地図の載ってるページを開くとその横にオープンカフェの写真、そして『「ついここには来ちゃうのよね」。タリン子はビールがお好き』との説明書きが・・・タリン子?マドリッ子の時も笑ったがこれにはもっと笑わされたぜ。
 ともかく地球の歩き方に沿って市内をぐるぐる歩く。ラエコヤ広場から旧市庁舎、聖霊教会、歴史博物館、カタリーナの通路、エトセトラ・・・昨日も書いたが落ち着いていて気持ちの良い町だ。ひとつひとつはどうと言う事はないんだが、それら構成物一つ一つが作り出す町全体の雰囲気がなんとも言えない。そして、地球の歩き方にも書いてあるが、歩き倒されてすこぶる擦り減った石畳が歴史を感じさせるねえ。


夕暮れ近く、パルノ街道沿いの広場で、懐かしい早いテンポの3拍子とフィドルの音色が聞こえてきた。ケルトの民族音楽だ。音色に導かれて広場に入ってみると、一組のバンドと、その前で100人程度の若者が手を取り合って踊っている。
聞いてみると、スコットランドから来たバンドらしい。彼らの音楽に合わせて、若者が時に大きな輪になり、時に四、五人のグループに、また二人づつのカップルになり、フォークダンスを踊っている。
みんな何の憂いも惑いもなく、五体をいっぱいに使って、そして顔にははじける笑顔をたたえてむちゃくちゃに踊っている。傍から見てるだけでこっちまで幸せをお裾分けされるような楽しい空気。たぶんこんな事は、89年のあの変革以前は考えられもしなかったのだろうな。
 にやにやしながら演奏を聞いていると、隣の自称アーティスト3人組が話し掛けてきた。俺は気分が良かったので、宿に帰ってから呑む用に買っといた缶ビールの一本をバッグから取り出し、彼らにやった。すると彼らのうち一人(エストニア人)は彼自筆のハガキサイズの風景画をくれ、もう一人(ロシア人)は、即興で俺が話している最中に俺の似顔絵を書いてくれた。
その後一緒に本場のロシアのウォッカを飲みに行こうと誘われたんだが、夜も相当更けてきたし、実はちょっとだけ(5%ぐらいか)一緒に飲みに行く事に不安もあったので、丁重に断って二枚の絵だけもらって家路を急いだのである。





9月9日 エストニア  Tallinn / ユリカの家B&B (260EEK)

前日、広場でロシア人が書いてくれた
この宿の家族構成は、ユリカ(日本人みたいな名前だけど美人のエストニア女性)と彼女の一男一女、そして彼女のお父さんとお母さん、そしておばあさんである。ユリカのご主人も居るかもしれないが、俺は今のところ一回も見ていない。
おとといの日記におじいさんと書いたのは、ユリカのお父さんの事で、聞くとまだ62才という。おじいさんというのはチト早すぎた。んが、年齢よりはかなり老けて見えるのは確か。彼の奥さんはまだまだ若く見え、ちょっと見では夫婦とは考えにくい。うちの父親は69だが、よっぽど若く見えるわ。
 
そのおじいさん(また失礼な!でも名前を忘れてしまったんだな・・・)は昔ソ連が健在だった頃のエストニア・ソビエト共和国の国営広告会社に勤めるカメラマン兼ディレクターだった。
引退まで35年間、ソ連国営企業のプロモーション映像やドキュメントを撮り続けたという。
学校を卒業してすぐ、モスクワに出て映画学校(?)に通いだしたのだが、余りにも自由が制限されるのとロシア語があまり出来なかったので(たぶん授業もきつかったんだろうな)、しばらくして祖国に戻ってきた。
その後は地元の映画会社に就職し、一度の転職の後、定年まで勤めた。生涯、共産党員ではなかった。それゆえの苦労も多く、常に他人の疑念の目にさらされていたと語ってくれた。
仕事ではアエロフロートの飛行機の宣伝映像も作ったし、ソ連の商船に乗ってナホトカから横浜、香港への航路も往復したらしい。もちろん仕事は面白かったが、給料は吹けば飛ぶようなものだったって。もちろん最低限の生活はほとんどただで出来たんだけどねと、笑いながら教えてくれた。
もっと根掘り葉掘り、苦労話とかをいっぱい聞きたいんだが、英語、あんまり得意じゃなくって、でも俺が質問すると、うーん・・・と目を閉じて一生懸命言葉を見つけてしゃべってくれるので、突っ込みすぎるのが悪い気がしてね。
閉塞した社会で、真面目に生きた分だけ苦労も多く、しわの数も増えたんだろうな。でも今は、その苦労顔にすごく穏やかな表情とまなざしが宿っている。おじいさんの顔は、エストニアのこの半世紀の歴史をそのまま刻んだ顔だと思ったよ。




9月10日 エストニア Parnu / VilloのアパートB&B (150EEK)

ユリカB&Bのメンバー
(ユリカ除く)と泊まった離れの部屋
 昼過ぎにユリカ宅を出て、そのまま南へ。
実は2週間ほど前から、発進時に「ガリガリガリ」と足回りから異音が発生していて、ヘルシンキでカバーを取ってフロントスプロケットを見てみたら、ほとんど擦り減ってるのが分かった。
これまですぐにチェックできるリアの方だけをチェックしていたんだけど、今考えてみれば、より小さい歯車で、大きな力がかかる前の方を見ていなかったのはアホとしか言いようがない。
 ここ数日は、発進時だけではなく、ローからセカンドにギアチェンジする時にも、ちょっと荒いつなぎ方をすると「んがりっ、イタタッ!」と泣きよる。空荷の時でも時々なる。うーん、これはとっくに使用限度を超えているに違いないぞ。
 ヘルシンキのバイクショップで交換しようと思ったんだけど、在庫がなくて、オランダから取り寄せで1週間かかると言う。日々寒くなってゆく北欧でそんなには待ちたくなかったので、そのままフェリーに乗ってエストニアまで来たが、間違いなくこっちの方が望み薄だろう。なんせバイクが走ってるのをあんまり見ないもんな。
 とにかくなんとか早く調達しないと、ということで、いま日本のお店に連絡をとって、しかるべき場所に送ってもらえるように依頼中なのだ。

だから運転にはえらく気を使う。極力スプロケットに大きな力がかからないよう、そろりそろりとスタートさせ、その後もクラッチも慎重に、そして巡行速度は6速で一番静かに走れる65キロ程度に固定し、マラソンの先導車のようにおとなしく走った。
 いやあつらいねえ、問題を抱えながら走るのは。F1なんかで、トラブルを抱えたまま、ピットまで我慢して走るドライバーの気持ちが良くわかったよ
(そういえばF1といえば、こっちではミカハッキネンがスーパースター。エストニアのラジオからも『ミカハッキネン応援歌』なるものが、しょっちゅう流れている。フィンランド語、エストニア語が全くわからなくても、唄の中で、『ミーカーハッキネン、ミーカーハッキネン♪』と連呼するので多分そうだろう。各フレーズの最後も『♪○×△▲□■・・・ねん♪』と韻を踏んでるのがとっても笑えるよ)





2000年9月11〜15日へすすむ